2008年05月14日

ブックマーク -38または我が市の和菓子

先に酒の話を書きましたので,少し甘いモノの話もしないと片手落ちですな.

# ワタシは先述のようにお酒が大好きでありますが,すると世人とは早合点なもので,それでは甘いモノは苦手に違いない.と誤解されることが屡々ございます.そりゃまぁ幾ら何でも饅頭をツマミに酒を呑んだりは致しませぬ.そんな奇を衒ったことを為しても美味くない上に胃にも悪かろう,しかしながら酒呑みと甘いモノ好きは異なったクラスの属性であって,同一人物内に併存していても何の不思議もございますまい.

さてずっと以前のエントリで,ワタシはこう書きました.

「い」の住んでいる町は,人口が7万人しかない小さな町なのに,和菓子洋菓子ひっくるめて,異様にお菓子屋さんが多いです. なんでも人口あたり比率では京都についで全国二位とか聞いたことがあります.

これはつまり,伊東という街は観光都市の性格上,旅館などの宿泊施設に納入する菓子需要が大,またオミヤゲ用としての出荷量も馬鹿にならぬからでして,さらにもう一つ,これらの観光施設で働く労働者は女性が多い.して何故か女性は総じて甘いモノを好む傾きがあることにも起因しておろうと思っております.

それはさておき去んぬる日,知人のサイトで取り上げられておった記事がトリガーとなりまして,そぞろ甘味欲を喚起せられましたので,今回は市内に散在する和菓子屋を気儘に Vespa で徘徊し,幼少より贔屓の「岡の梅家」,叔父の友人「文寿堂」,東京「紅谷」の暖簾分けに当る「伊東紅谷」より,1コづつ買い求めて参りました.

和菓子
【ダイフク,ドラヤキ,キンツバと江戸和菓子の基本を押えたところで,市川製茶のエリツィン・ブレンド新茶を濃ぉく出して一服する幸福よ】

何?「1コづつ買って来るなど貧乏臭いことをするな」と?
いや,貧乏は仰せの通りなれど,積極的にバラ買いする理由はある.

と申しますのは,ワタシの睨んだところ,贈答用箱入り菓子とバラ売りの菓子はモノが違う.どう違うかと申さば日保ちが違う.これは憶測なのですが,箱売りというのは,保存性に妥協して味を手加減してはおるまいか.
例えば写真左手前を御覧頂きたい.これは「伊東紅谷」の豆大福ですが,いつも店頭にはバラで3〜5コしか置いてない.して,食えば非常に美味なれど,全く保存が効かず半日もすれば必ず固くなるのである.これでは箱入れして並べられぬのは当然の理.

# ちなみにこの「紅谷」,東京小石川の総本家は江戸時代の徳川家御用達から昭和まで続いた老舗中の老舗で,近代に至ってからも三条家などのヤンゴトナキ方面にもマメダイフクを納めていたらしいのですが,今は廃絶した由.但し暖簾を継ぐ店は今も全国各地に散在し,東京では「青山紅谷」が盛業中であるとのこと (そう言えば青山通りにございましたなぁ) ,さらに伊東紅谷を検索してみると参考になるサイトがありましたが,ここでも「固くなるのが本当なのだ」との記述がございますね.固くなったのを焼き返して食うとこれがまたヨイのである.

そこで諸君,改めて思惟を巡らされたい.世によくある何日も軟かいままのダイフクモチとは,果してそれは真なるモチか.この事象の背後には何らかの欺瞞が潜んではおらぬだろうか.真っ当な技術革新なら良いが,外見はモチであっても内実は知らぬうちに別物に掏り替わっておるのではなかろうか.世には「雪見だいふく」のように凍っても固くならぬモノさえあるのだから油断はならぬ.そも元来の「和菓子」とは,どのようなものであったのだろう.

とまぁ,一旦猜疑心,もとい知的好奇心に囚われるとムラムラと調べたくなってしまうのは我が悪癖にて……

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posted by 「い」 at 00:03 | Comment(11) | TrackBack(0) | 読書記録

2008年05月08日

ブックマーク -37または失踪日記

少しエントリの間が開きました.これはいつもの怠け癖……ではなく,あれは桜が咲き初めた頃でしたか,突然に ADSL モデムが春雷の影響か何かでブッ壊れやがりまして,則ちモデムを買い換えるには金が要り,これは大貧民たるワタシにとって非常に痛い.が,通常であれば已むを得ぬところ.しかし通常でなかったのは,笑止なり拙宅の如き貧民窟にも光ファイバが開通の見込になっておりまして,その予定が5月初旬.すなわち今日.だったのでした.

スケジュールが決まっている以上,精々使い延ばしても1〜2ヶ月しか利用価値の無い ADSL モデムに,乏しい財布の底を叩くのは烏滸の沙汰.そこでワタシは,虚しく LED が点滅するだけの不燃ゴミと化したモデムを前に,「インターネット如き,繋がらずとも差支えは無いのではなかろうか」と,考えたわけですな.
「絶対あるよ w」と云う声もあろうが,果して本当にそうか.これを奇禍として暫しオンライン世界から姿をくらまし,15年ほど前の状況に戻って現状の生活スタイルを見直すも一興.

真っ先に思い付く不都合は e-Mail であります.こればかりは我が一存で遮断するは先様に迷惑であろう.しかし幸い以前から FAX を含めた全ての連絡はスパム除けの為に GMail に集約転送してある.であれば自宅から POP アクセスなど出来ずとも,電器屋の店頭であろうが仕事先であろうが目を通す事は出来る.つまり図らずも遣り取りと云えば FAX と限られた e-Mail しかなかった昔のコミュニケーション密度まで下がるであろう.また平生から内容が粗忽な e-Mail は読まぬことにしておりますゆえ,是非とも返事せねばならぬ用件も極めて少のぅございした.

# およそ粗忽な e-Mail とは,流石に粗忽者が書くだけのことはあり,総じて本文不得要領 (例:「依頼がありますので至急電話下さい」) ,日時不明確 (「明日お会いしたいのですが」←相対日時を使っておることに気付いてない),果ては用件表題欠落,或いは添付ファイルの付け忘れ,甚だしきはワタシをサポセンと勘違いしておるのか,ソフトや PC の使い方が解らなくなって訊いて来る…等々,疎漏が多いものでして,こういう人々は IT リテラシ云々よりも先に御当人に問題あらん,この種の人物が我がアドレスリストの僅か1%,すなわち3人も現われればワタシの人生 半日分は確実に台無しになるが,迷惑とは常に加害側が鈍感なもの.

実際,「添付ファイルがありませんので再送願います」とか「お申し出の面談の御用件は何ですか」とか「まず Illustrator の掌アイコンをダブルクリック」などという,書いていて俺何やってるんだろう的な自己嫌悪に陥る返事は書きとぉございませぬでなぁ.「先に迷惑料10k円振り込んだので返事下さい」とでも書いて来るなら別…いやそれは詐欺スパムの手口か.
また何故に大の大人が斯も無様な e-Mail を送って恥じぬか考えるに,普段より安易な電話連絡や惰性的の会議面談に慣れ切り,例え説明不足や言葉足らずがあっても,その場で相手が不明点を尋ねて呉れ,相手も聞かれた事には答えぬわけにはいかぬことに甘える悪習の所以ならん.


さておき,次に思い付く不都合は Web ブラウズが出来ぬ事であります.コレは調べ物に支障があると云えばその通りですが,目下緊急重要の案件もなく,既に頭の中に入っておるストックや手持ち資料だけでも当分は困らぬ.これは情報を一旦頭に入れてのちに咀嚼醸造して成果物を生み出すプロセスからすれば当然であって,でなければワタシの脳味噌はバッファメモリの如き自転車操業,九官鳥と同水準ということになりましょう.

一方,それまで盛んに使っておったメッセンジャーや各種チャットなどの同期型コミュも,ログのタイムスタンプをよく見れば,利用時間の殆どは会話の間 (ま) に空費されておる.しかも即読即答を余儀なくされるリアルタイムコミュニケーションの弊か,我が発言たるや浅思浅慮にして汗顔の至り.また Twitter やブログや掲示板などのコメンタリも,読み書きの大半は社交辞令や軽口で,極めてS/N比が悪ぅございました.
ワタシは決して社交辞令や当意即妙の軽口が無意味などとは思ってはおらぬ.むしろ重視しておる方だと思いますが,それも有益な情報交換が伴えばこそであって,本題が空疎では埒もない.

全世界のネトモ(笑) 諸君よ,薄情な奴と思わば思え,「い」とは元来このような厭な奴なのだ.ちなみにネトゲやネトラジ,ネットTVの類は,元々利用する金や意志や暇を持ち合わせませぬので無関係でしたが,虚を突かれたのは,定期的にクエリを出すソフトウェアのセキュリティパッチやヴァージョンアップなどが出来ぬことでして,一瞬戸惑ったものの,スタンドアロンではセキュリティリスクもございませなんだ.

唯一困ったのはファイナンス関係ですかな.ここ伊東は田舎ですから都市銀行が無く,実店頭で振込を頼むと手数料が甚だ高い.ところが,偶然にも郵貯銀行だけは,民営化記念で2008年9月まで実店舗の ATM 振込がタダになっており,郵便局までの散歩と思えば凌げぬこともない.他行への振込に制限はあるが,大概の人は郵貯の口座ぐらいは持っているものでしてな.他方,オンライントレードのアカウントは持っておるものの,どのみち株価ドン底の昨今では意味を成しませんでした.

つまるところ,これがネット失踪1〜2年ということにでもなれば,ワタシ自身の浦島太郎化が進んで色々と差し障りも出て来ましょうが,多寡が1〜2ヶ月程度では「繋がって」おらずとも不都合は些々たるものにて,むしろ雑事でインタラプトされる煩なきゆえに,落着いて思索を巡らす事も出来,またストレージに散乱していたファイル群の整理も致し,散らかっておった部屋も整頓して明窓浄机となり,難し気な積ん読本も奇麗に片付いたのであります.記憶装置にランダムなアクセスが入るよりは連続データ処理の方が効率的なのは人の脳でも似たものと見え,いわば頭のデフラグになったわけである.今後は,この失踪の教訓をどのように活かして「繋いで」行くかが課題と申せましょうな.

これをお読みの諸賢とて「い」が1〜2ヶ月程度ネット内に姿を現さずとも,生活には影響はございませんでしたでしょうが,お互い様にてワタシも同様であります.して,ここにも,失踪してもあまり困らなそうな人が居りますな……
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posted by 「い」 at 16:19 | Comment(3) | TrackBack(0) | 読書記録

2007年12月17日

ブックマーク -36 または語学音痴

率直に告白致しますと,ワタシは外国語が苦手であります.
イタリア語は勿論,実は英語も.

確かに「い」は高校生の頃に塾で英語講師の助手をやっておりましたし,後には九段のイタリア文化会館に通って初級イタリア語を習いました.しかしそれはもう30年近い昔,当時のイタリア文化会館は,今のような Gae Aulenti 作のデカい真っ赤なビルなどではなく,蔦の繁ったコンクリート打放し2階建の地味な普請に小さな銘板,奥の棟に至っては木造の西洋館を転用したもので,贔屓目に見ても公民館程度,玄関扉だけは申し訳程度に赤く塗ってございましたが,それも地味過ぎてみな気付かぬ.現にワタシも週に二度通ってた癖にウッカリ何度か通り過ぎました.

またその頃はツブシの利かぬイタリア語なぞ習いたがる酔狂人は都内にも少なかったと見え,1クラス20人に満たぬ受講者の大方は,イタリアとの取引案件を抱えるビジネスマンかクラシック音楽専攻の人が主体.イタリア人の講師もテキトーにサボって時々居なくなったり開講時間がイーカゲンだったり,実にそこだけイタリアな雰囲気でしたな.

ところが,そこからの我が人生,ずっと外国語とは縁薄い日々を送って参りましたので,元々実力が無い上に,普段使わねば忘るるは当然.それでもまぁ英語は映画だの歌だのと耳に入る機会は多かれば,全く忘れるという事は無い.が,普段使う事の少ないイタリア語,特に会話は壊滅状態.折角学んだ知識記憶は櫛の歯が欠けるが如く年々失われ,近年はどのくらい馬鹿になったかというと,初対面のイタリア人に引き合わされた時なぞ,「初めまして」の挨拶が咄嗟に出て来なかった.と,そのくらいの酷さにまで劣化し果てました.

こうなると外国語能力云々というよりは,知能そのものが怪しくなって来ておるような気も致しますがそれは措いて,あまりに外国語がダメですと仕事にも少々差し障りが出て参ります.つまりワタシはデザイン稼業に携わっておる関係上,不得手でも最小限の原書や Web サイトに目を通す必要は屡々ありますれば,全てを忘れては埒が明かぬ.とは言え,デザイン関係の文献は,本文はチンプンカンプンの斜め読みでも,図版や写真を観れば勘で大要は掴めますので,これがまた一向に外国語が上達せぬ理由でもあるのでしょうなぁヤレヤレ.

そこで気休めとボケ防止を兼ね,毎朝定刻になるとイタリア語の語学教材が大音響で鳴り出すように iTunes に小細工を施し,それを目覚し代わりに致すことにしてハヤ2年ほど経ちました.ワタシの場合,目が覚めてから起き上がるまで30分を要しますので,時間的にも丁度良いのであります.

鳴らしているのは英国系の老舗教材屋である Linguaphone の品でして,Linguaphone All Talk Italianという,テキスト無しのリスニング専用で,本来は通勤通学途中の「ながら学習」用らしき安直なメソッドですが,イタリア語は基本的に綴りのままの発音ですから問題ない.これをば痴愚の如く2年も聴いておりますと,流石に筋書だけはかなり頭に入ってございますね.ただ,ワタシは寝て聞いておるだけで自分の口を動かしませぬゆえ,話す方の能力はチットモ向上しませぬが.

# ところでこの教材,値段を間違ってはおらぬか.ってのは,米国 Amazon では,同じものが59.95ドルであって日本の方がだいぶ安い.ハテこれは面妖であると紀伊國屋で確かめても6628円である.何れの価格が妥当なのか今の相場を知りませぬが,25年前に Linguaphone の入門イタリア語教材カセットは一組3万円ぐらいで,当時のワタシには到底買えませなんだから,総じて随分安くなったものですな.

# 但し,この CD は英語版ですから説明部分のアナウンスも英語でして,誰にも向くとは言えぬと存じますものの,扱うイタリア語の方が入門級ですので,英語のアナウンスもそれに同期して平易で聞き取り易ぅございますれば,何でも良いからイタリア語の LL 教材が欲しい人は Amazon.jp が値段を直す前に素早くポチっとされたし(笑)


それにつけても羨ましきは外国語に堪能な人であります.あれは天分なのか,覚えの良い人は1〜2年も習えばスラスラと解るようになるもののようですな.鴎外なんぞは晩年になってからもフランス語をやったりしておるし.どういう頭の構造になっておるのだろう.

例えばワタシの同級生某は英語が母国語同然にペラペラでしたが,どのようにしてそうなったか訊くと,最初は彼も凡人並に脳内で日本語に翻訳して理解していたそうです.が,ある朝,ベッドの中でウトウトと寝覚を待っているとき,窓外で米人の子供が遊んでおり,その声が,ふと真直ぐに英語のまま頭に入って来,その刹那にどこかの回路が繋がったかのように解り,話せるようになったのだそうな.

きっとそれまで彼の脳内には雪の降り積もるように少しづつ静かに英語の知識が蓄積し,飽和状態を呈していたのが,子供の話し声が引金になって突然の結晶作用というか創発を起こしたのでしょうかなぁ.
ワタシにもそういう僥倖の瞬間が訪れぬものかと寝床の中で羨ましく思いますが,果報を寝て待てども,怠惰なワタシにそこまで現実は甘くない.
さて今回読み始めましたのは,その種の人なのかどうかは知らぬが英語にはひどく堪能らしい人の本で.

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posted by 「い」 at 16:43 | Comment(3) | TrackBack(0) | 読書記録

2007年12月04日

ブックマーク -35 または萌え擬人化

ワタシの友人に,毛玉明という小説家のタマゴが居ります.

友人と申しても若く,えぇと今年で20歳だったでしょうか.その彼が14歳か15歳のとき,何が契機になったか知らぬが書いた小説に,ワタシが感想を書き送ったのが切ッ掛けで,今に至るも友誼が続いておる.尤も当時のワタシは相手が中学生だとは知らなかったわけですが.

その時の作品を紹介したいのですが,生憎と今は公開停止になっておるようで,代りに同時期の彼の作例としてこのリンク先あたりをご覧願わしぅ存じますが,中高校生が書いたにしては中々なモノであると思うのですが如何でしょう.

# 註釈しておきますと,同工異曲の手法を使ったプロ作品に「軍艦越後の生涯」というのがございますが,本人の申すらく,それは全然知らなかったとのことで,単なる偶然の一致のようであります.

で,5年後の今はどうかと申せば,「十で神童 十五で才子,ハタチ過ぎれば以下省略」の格言通り,未だどこぞの文学賞を取ったという噂も聞かず,本が出たという話もなく,つまりはぶっちゃけ鳴かず飛ばずのようですが,それもまた人生であろう.そのうちいいこともあるさ.

さておき,本の質と売れ行きは,一致するのが理念としては望ましい事でありますが,ともすれば現実は↓このように大きく相反するもので,



『「ケータイ小説」がベスト3独占、07年文芸部門』なんていうニュースを目にするにつけ,ハテ現代の文芸ってぇのは一体どういうことになっておるのか,ワタシもチト立ち読みしてみましたが,製本された紙媒体では密度がスカスカで到底読むに堪えぬ,かと言ってケータイの極小画面では老眼で駄目.畢竟ワタシなぞには向いておらぬ.としておきます.

それに,ケータイ小説を論評するなら,同じケータイサイズで読むに堪えるような密度 内容 文体の「ケータイ書評」を書かないとフェアでない.相手の刀の届かぬ遠くから石を投げるのと同じですからな.
にしても上掲記事にあるこの談話↓は…

>老舗文芸誌「文学界」1月号は、「ケータイ小説は『作家』を殺すか」と題して大手文芸誌初のケータイ小説特集を組み、文学への影響を分析。
 同誌編集部は、「文学は時代を反映するという意味では、文芸誌もケータイ小説を無視できない」と説明する。

 
「文學界」の編集長ってのぁ,いまワタシの幼馴染がやっておると思ったが,ウカウカこんなこと書かれていいのかのぅ.数年後に妙な原稿を大量に持ち込まれて後悔したりせぬか.

いや,そんな腥いことを書く心算ではなかった.書きたかったのは「擬人化」の話でして,先の毛玉明の小説も,テーマは吉田満「戦艦大和ノ最期」へのシリアスなリスペクトだと思うのですが,手法は故意にラノベ文体を使った大和の擬人化でありますね. (そもそも「戦艦大和ノ最期」自体が,顕かに大和を擬人化した書き方をしていますが,皆様お気付きですか)

また,彼の近作には様々な軍艦を擬人化した作品もある.改めて申すのもアレですが,兵器擬人化というのは,ミリヲタの間では定番の手法で,ワタシが定期巡回しているサイトの中にも数多存在致しますな.プロの方ですとこちらこれ (稀刊本なのか凄い値段である) とか.

…しかし空母「瑞鶴」の抱き枕.って,どんな人が買うんだろうかなぁ.

軍艦に限らず,この擬人化という手法,もしかしたらこれは,イスラーム圏より東,インド以東のアジアに普遍な文明の在り方ではないかとワタシは思っておるのでして,つまりアジア人の世界認識の根底には広くアニミズムがあり,それと結びついてシャーマニズムがございますね.この自他融合的な眼差しのありかたは「個」と「対象」を峻別する西欧のソレとは大きく異なるわけであります.

これをば敷衍するに,アジャンタ石窟の仏画から現代日本の萌え絵に至るまで,アジアの人物像と西欧世界の肖像との最も大きな相違点は,デフォルメ手法の違いなどと言う表層的技巧の問題ではなく「擬人化」という視点の有無で観別ける事が出来るのではなかろうか.仮に描かれる対象が肖像であっても,アジアの絵画は「人間を一旦擬人化して描く」という,一種捩れた操作を行っているように思えます.
このあたりが,今のフランス人なぞが日本の漫画を模倣して描いた “MANGA” や,19世紀末に浮世絵の影響下で描かれた泰西絵画なぞが元と似て大きく異なる所以ではないか.

と仮説を立ててみますと,毛玉明の「大和」や,“じじ”氏の「瑞鶴」が巫女の姿として描かれることは,様々な示唆を含むように思えるわけでありますね.

よしんば直接に擬人化して書かれる事はなくとも,阿川 弘之「軍艦長門の生涯」や,吉村 昭「戦艦武蔵」は,隠喩としての軍艦擬人化の性向が顕かに読み取れます.特に後者は,筆を抑えて書いているにも関わらず,ともすれば著者の意図を超えて,否応なく「武蔵」が怪物めいた巨人に見えて来ます.今回読んだ本もそれで…

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posted by 「い」 at 22:03 | Comment(11) | TrackBack(1) | 読書記録

2007年10月31日

ブックマーク -34 または万聖節

今日はハロウィンらしいですな.昔はハロウィンなどと言うと耶蘇の幼稚園ぐらいでしか祝っておらなんだ気がするが,最近はどこでもやるようになって来たようで.
しかしあれは耶蘇の祭りなのかねぇ.謂れを聞くと明らかに異教的な風習な気がするが.
ともあれ極貧のワタシには南瓜提灯など勿体無い限りでありまして,せいぜいカボチャチップスを食うぐらいであります.こうすればカボチャとお菓子が同時処理出来て手っ取り早いのである.

実は最近,家人に臨時収入があったらしく,Amazonさんちから「チンしてチップス」なんてものを買って来まして,今日はワタシもソレを使わせて貰ってカボチャチップスを作ったわけなのですがコレはなかなか.何よりカボチャ半分もあれば膨大な量のチップスが出来るのは甚だ痛快であります.とは言え電子レンジをフルに使う関係上,電気代が怖いが.

いや,そんな話をする心算ではなかった.つまりハロウィンと言えばオバケであります.実は奇態な事に「い」は,オバケの類が屡々見える性分なのであります.

そういうモノが見えるのはワタシの頭がオカシいからだと仰せになるか.うむ.それは多分きっとその通りであろう.だが我が頭の変なところを論い出せば際限がないので横に措いて話を進めますに,職業上は満更悪い事ばかりではない.と申しますのは,ワタシの専攻の建築デザインというのは,建築と申すぐらいですから必ず敷地がございます.して敷地と申すぐらいですから往々にして地霊の類が出没する.正確に申せば「出るところが見える」のでありますね.

見えると,どう便利かと申しますと,まずもって「出る」ところにウッカリ部屋を造ってしまう事が事前に回避出来る.
なぜ回避した方が良いかというと,得てしてそういう場所というのは,環境工学的に照らしても,採光が足らぬとか,通風が乏しいとか,湿度が過剰であるとか,決まって何かしらの難点がある場所なのであります.そこまで解っているなら,何もそんなオカルトめいた勘を働かさずとも,最初から湿度でも温度でも科学的合理的の計測を行った上で計画を進めるのが望ましいわけですが,まぁ常に事前の調査時間や予算が潤沢とは限りませぬでな.

ともあれ,以前に流行った風水デザインとか,或いは今も関心の高い家相などは,そういう感覚データを古来から集積しマニュアル化して,一般の人にも解り易くしたものであろう…とワタシは捉えております.尤もワタシ自身は,そういう怪力乱神の類を信じておるかと問われれば,そんな非科学的なものはこれっぽっちも信じてなぞおらぬ.ごくプラグマティックに自分の持ち合わせておる感覚が便利だから援用するだけでして,凡そ目に見えるものをゼンブ信じるほどにワタシはお人好しではない.そも我々デザイナーなんてのは視覚を通して他人様を騙まくらかすのが仕事の大半ですので,人間の視覚が如何にアテにならぬかは知悉しておりますし.

ほれ,世間にはよく「ちっとも信用してはおらぬが利用価値があるので程々に付き合っている」って奴がございましょう.それと同じであります.

ちなみに,そういうモノが「見える」のと,目で「見えている」ものを判別するにはどうしておるかと申しますと,眼鏡を外して同じように見えておればそれはオバケでありますね.つまりあれらは,ワタシの網膜に光像を結んで見えているわけではないゆえに,物理的な視力に影響されないわけであります.簡単な理屈でありましょう?

とまぁオバケの話つながりで,思いっきり出まくりな本をひとつ…

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posted by 「い」 at 20:27 | Comment(2) | TrackBack(0) | 読書記録

2007年10月12日

ブックマーク -33 またはPublic Image Limited

いやぁ,あまりにも懸け離れ過ぎて笑っちゃいますな.

何がってアナタ,『「1本で1日分の野菜を使用」などと表示された野菜ジュース類の多くは誇大表示って記事でございますよ.
幸か不幸か「い」はそんな高いものを買うお金がございませんから全く損はしませぬが,身体に良かれと毎日野菜ジュース飲んでた人はムカツクでしょうなぁ.
どのくらい誇大かってぇと「野菜ジュースの栄養は1日分でなく、小鉢1皿程度と考えたほうがよいだろう」ってんだから呆れますな.それじゃ牛丼屋のオシンコか喫茶店のモーニングセットサラダじゃねぇか.

しかし,現代の食に野菜が足らぬてのは,ずいぶん昔から散々言われておる割に,乾燥野菜なぞはあまり普及しませんな.仮に吾人が独居しておれば,キャベツ1コとかダイコン1本,タマネギ一袋など買っても使い切れずに駄目にするが関の山ですから,どう工夫しても野菜不足は必定.それを補うに乾燥野菜はうってつけなのですが,アレは乾涸びた姿がミイラめいて,瑞々しい野菜のイメージにそぐわずパッとせぬ.せいぜいカップ麺の具なぞに申し訳程度に入っているような貧乏臭い印象でしょうか.

方や野菜ジュースと云うと.イメージはいかにもフレッシュでヘルシー,実栄養はそのイメージと逆であっても売場に並んだ時のアピールは比になりますまい.

#ワタシが今より幾らかお金があった頃は,割合に←左のような業務用じみた乾燥野菜を頻用したものでありますがね.特にホウレン草とかニンジンとかキャベツとかトマトとか.
今はもっと安上がりに,見切品の野菜を買って来ては片っ端から適当に切って冷凍しております.冷凍で栄養が多少は失われるのは避けられぬとも利便性優先.なぁにイメージだけ健康的でもインチキな野菜ジュースなんぞよりは遥かにマシである.


しかしこの乾燥野菜と野菜ジュースのように,パブリックイメージの偏りが事実を解り難くさせておる物事は他にもありそうな気は致しますな.

例えば,唯今ワタシはパイプで煙草を喫っておりますが.これはお金がなくて普通の紙巻煙草が買えぬからであります.したがパイプと言うと,裏腹に金満家の印象を与えるらしい.実は質量当り単価を計算してみれば,パイプ煙草の方が遥かに安上がりなことは明々白々.でなきゃワタシが喫える筈がない.
そういえば昔ベンツ190Eに乗ってた時も同様で,事実とは正反対の金持ちに思われたことが多かりました.年あたりの経費を勘定すりゃ,あれほど安いクルマもあまりないのですが.

こういう「よく勘定してみるとパブリックイメージと客観的事実は違って」という件は,我がチンケな私生活に留まらず,マクロな社会分野にもあるかも知れぬ.と思ってちょっと読んでみましたのは.

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posted by 「い」 at 23:38 | Comment(5) | TrackBack(0) | 読書記録

2007年09月28日

ブックマーク -32 または怠け癖

だいぶ更新間隔が開いてしまいました.
この間,実は必ずしも怠けていたわけで…して,そのあいだ何をしておったかと言うと,何もしておらぬ故に怠けると謂うのですがそれはともかく,チト気付いた事がございました.

と申しますのは,怠けておってもアクセス解析の数値は殆ど減らなんだのです.これは誠に喜ばしい発見で,アクセク更新などせずともアクセス件数が大差ないなら,怠けた方がムロンずっとヨロシイわけであります.「勤勉な馬鹿は銃殺にせよ」なんて諺もございますでな.

そも拙ブログは,画面を開けた瞬間に誰もがお気付きと存じますが,扱う内容がお世辞にも万人向けとは言い難く,また冗長冗漫難読晦渋な上に実用性は皆無.さらに有名ニュースサイトや日記ブログとは違って,最新のホットでトレンディな話題を取り上げる事もございませぬ.まぁ「い」は元々そういう事柄に極めて疎いので,取り上げたくとも出来はせぬのですが.

# 例えば前回の F1のエントリなど,その典型でございました.あたかも今週の話題のように話し始めながらも,中身は31年前の益体もない思い出話なのですから,検索して来た方にとっては詐欺のようなものであります.

ただそれでも平素の更新直後には,アクセス数やページヴューは数倍に伸びるのですが,上述の通りウチでは,最近の記事即ち最近の内容ではございませぬので,老婆心ながら申し上げれば,上から更新順に読むのは時間の無駄かと存じます.
また,さらなる問題点として「日本代表対茨城代表の経験則」というものもごさいます.

これはリンクさせて頂いております「大西科学」様の説によるものでして,以下に引用致しますと,
人生は有限で、見られる映画の数は決まっている。ある休日、暇だから映画でも見るかとなった場合、今日作られた映画と、過去の名作の、どちらを見るべきか。これについて「新作映画」を選ぶ理由が、どんどん少なくなる一方ではないか、と思うのである。(中略) そもそも「人生における映画ベストテン」と「今年発表された映画」で、後者が勝つ見込みはほとんどない。「日本代表」と「茨城代表」のどちらが強いかというのと同じことである。
勿論,拙ブログに「過去の名作」などは一点も存在しないことは,書いておる「い」本人が自信を持って断言致しますが,それでも新着順に読んで行くよりは,過去エントリの中から適宜択んで読んだ方が,幾らかでもマシな内容を引き当てる期待値が大きい.ト,誰が考えても結論はそうなるわけであります.

# 尤もこれは殆どのサイトにも同じ事が言えると思いますので,RSS リーダなんぞの飛び道具をも操ってまで最新情報をワシワシ漁り回ることにイカホドの意義があるのか,ワタシはかなり懐疑的ではあります.…と言うより「世にある最新情報の殆どは無価値である」などと故意に挑戦的な書き方をしたほうがキャッチーなのでしょうけれど,そういうあからさまにツッコマレブルなスタイルは,如何にしても頭悪そうで気が進まない.

いっそ時系列順にエントリが並ぶ今の形式を廃し,リロードされるごとに記事の順序がデタラメに並び変わるようにした方が,却って寧ろ親切と言うものではあるまいか…などとも考えるのですが,徒にサーバ負荷を増やしても申し訳ないので已むを得ずそのままとし,差し当っては…
ポスト日を知らせるカレンダーや直近の投稿リストは廃止,投稿順に並べてあったダイジェスト集はアイウエオ順に改変致しました.こうすれば相当に長い間サボっておっても一寸見にはバレにくかろう.

今回の読書記録もカクシカの次第で,いま話題の最新出版トピックなどコレッポッチも取り上げてはおらぬことを予めお断りしておきます.…と言った舌の根も乾かぬうちから,

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posted by 「い」 at 19:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書記録

2007年08月30日

ブックマーク -31 または夏休みの宿題

これは参った.

何が参ったかと申しますと読書記録であります.コメントを付けるのが追っ付かないのはいつものことですが,今回ばかりはイカヌ,溜まりも溜ったり31冊.って前の読書記録のエントリは2週間前か.これだけサボっていれば読了済みの本が溜っても不思議は無いが,この歳になって小学生でもあるまいし,8月の晦日に溜った宿題で大慌て…みたいなことになるとは.

いや,幼少の砌,「い」は夏休みの宿題で月末に慌てた事は一度も無いのであります.すなわち,7月中に大車輪でその7割方をやってしまい,残る3割はどうするかと申しますと,全然やらない.8月は31日までキッチリ遊び倒し,やらずに平然と提出するのであります.

そうすると世間ってのは甘っちょろいもので,「ははぁこいつは8月末に慌ててやったあげく,ここまでしか出来なかったな」と勝手に思い込んでくれるわけでして,あとはノンビリと補習するなり放置するなりすればよろしい.
どうせそんなものはズーと先送りしておけば時が解決するもので,現に30幾年が経過した今,突然,玄関に文部省職員が現れ,やらずに終わった小学校の宿題をやれと厳命…されたりはしないのでありますね.もしそんなことが起きたら面白いが.

さておき困ったのぅ.前述の7割の原則から言えば,せめて20冊は処理しておかねば体裁が付かぬことになるが,それでもちと多い.まぁいいや,書けるところまで書いてみよう…

(つづきはこちら…)
posted by 「い」 at 20:40 | Comment(4) | TrackBack(0) | 読書記録

2007年08月15日

ブックマーク -30 または組積造

誠にイブセキことながら,お盆休みのUターンラッシュ真っ盛りですな.
いまさら申すまでもなく,ここ伊豆は首都から最も手近な観光地のひとつですから,今や何処に行っても渋滞でギッシリ,また半島状の地形でもありますゆえ,出入口を塞がれた雪隠詰状態になっておりますね.

こんな時は迂闊に外出せぬが身の為というものでして,幸い「い」の住むところは近傍に湖川も山も森もある山の手にて,ここに座っておる限りは真昼の快晴でも30度を越えることは稀,現にこれを書いておる時点の室温は26度,エアコンなんざ不要で快適そのもの.主観的には高原の別荘の避暑に同じ.

…客観的には貧窮者向け公営団地ですが.

ところがそういう外出したくない時に限って外出の用事とは出来するものでして,今年の我が家は新盆なのであります.これも伝統習慣なれば抛ってはおけぬ.と言うか頼んだ覚えはないが実家に坊さんが来てお経を読んでくれるらしい.
あまり礼を欠いて死んだばかりの祖母が恨めし気に夢枕に立つようなことになれば,暑中ますます寝苦しぅなりますれば,Vespa で渋滞を掻き分け々々,少し離れた実家へと法事に出掛けて参りました.

平正
さてこれが我が実家.築は大正時代.伊豆石を使った組積妻壁の造作と土蔵造りが特徴の木骨組積造.文化庁の有形文化財に指定されております.
伊豆というのは地震の多い土地ですが,その割に (地震に弱いとされる) 組積造やナマコ壁が多いのが当地の古民家の特徴.これは古来より石材の産出が盛んで,結果的に左官技術が発達した所為もあろうかと存じます.例えば江戸城の石垣などは多くが伊豆の石材でありますね.

……というのは大嘘.いや上に述べたことは全て事実ですが,写真は近所にあるヨソ様の屋敷で,本当の我が実家は,これよりも古いことは古いがボロさも格段にボロい崩壊寸前の陋屋でして,建築学的な価値は皆無.
どうも我が先祖は建築に関する関心執着が薄かったと見え,我が家が没落して行くにつれ,幾棟かあった建物の中から値打ありげな順に売り払い,今に残ったのは単に古いだけの仕舞た屋一棟だけなのでした.

そも口先で「古民家を持っている」と申しますと大層なれど,実際に住んでみりゃスグ解るが現代人が使うには到底耐え得ぬものでして,現実にウチも普段は住んでおらぬし上掲の屋敷も無住である.かと言って実用に供そうと欲して現代的の設備を施せば豪くお金が掛かる.

何故かと申しますればつまり,日本古来の木造建築というのは非常に華奢なのであります.「百年の歴史を物語るどっしりとした古材」なんていう表現がよくありますが,あれは文飾曲筆かリフォーム業者のお世辞というもので,見た目は重々しくとも所詮は木と紙と土なれば,ちょっと手荒くバラせば例外なくガタガタになってしまう.感覚的な重厚さと物理的な強度剛性というのは全くの別問題なのでございます.

では昔の人はどうしてそういう華奢な家に何百年も住み続けることが出来たかと言えば,ぶっちゃけたところ,昔の日本は貧しい後進国経済の常で人件費が安く,相対的に材料は高かったからで,つまり数十年ごとに建物を丁寧にバラバラにして部材を吟味し直し,再び組み立て直すような篦棒に手の掛ることをしてもコスト的に引き合ったわけであります.
嫌味な言い方ですが「知的資源はタダで,金を払うのは物的資源だけ」如き蛮風が,そのような住み方を可能にしてきたわけですな.よく古建築の自慢で「釘を一本も使っていない」なんていうのがありますが,あれも金属部材の生産性が悪くて希少だったからで,畢竟貧困の産物であります.

# これは民家より遥かに耐久性重視の社寺建築も同様でして,今に残る古社寺建築の変遷を調べれば,どれも100年ぐらいでフルオーバーホールして組み立て直しておる.

そういうわけで,タテマエとしては「長寿命の伝統建築を大事に使う」というのは,資源保護の上でも環境保全の上でも景観面でも誠に結構なのですが,現実に伝統的在来木造住宅でやろうとすればハッキリ言ってシンドイ.
どちらかと言えばそれはお金に余裕のある好事家や一部インテリの文化道楽的な面が強く,また生得の断熱気密遮音衛生面での劣性能は改築ぐらいでは良くならぬから環境負荷も大きい.このあたりが,基本物性が長寿命な煉瓦や石材の組積造で構成される欧州の古民家と比して大きなハンデとなるところなのでありますね.

とまぁ「日本の住宅は昔も今も本質は資源消費型の使い捨て製品である.これを将来的に持続可能な資源循環型に改めようとするならば,日本人は伝統への郷愁を含め,数百年来の住形態を諦めねばならないかも知れない」ってなことを頭のどこかに漂わせつつ読みますのは.

(つづきはこちら…)
posted by 「い」 at 09:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書記録

2007年07月29日

ブックマーク -29 または DIY

ぬっ壊れたの修理だのと云った話ばかり続いて恐縮ですが,今度は Vespa が壊れました.

壊れたのはトランスミッションでして,走行中突如4速に入ったままシフトアップもダウンも不能となったのであります.
今更諸君に語るは釈迦に説法なれど,我が古式 Vespa はマニュアルミッションのハンドチェンジでありますれば,ギアチェンジ能わざれば文字通り進退窮まる.いやサーカスでもあるまいに元々スクータは後退では走らぬものだが.

折しもブログのネタ漁りに図書館に向かう途中でしたが即時断念,それこそサーカス的な細心のクラッチワークと自前の脚を見苦しくバタバタさせて4速発進停止を繰り返し,這々の体で帰宅した次第.
この通りネタは出来ましたから良いようなものの…


……良くねぇな,やはり.
脱落シフトピン故障の瞬間,我が脳裏には,ナメてしまったギアセレクタや,欠けてしまったギヤ,脱落したパーツがミッションに噛み込んでギタギタ…と云った怖ぞましいイメージが激しく明滅し,ワタシとした事が些か動揺致しましたが,翌日によく心を落着かせて調べてみますと,それは杞憂であって,ミッションのセレクタアームを止めているロックピンが脱落しただけでありました.
正直,原因が判明するまではヒヤヒヤ致しましたわぃ.あまりケース内が派手に壊れてくれると,直す手間は措いても換える部品のお金がありませぬゆえ.

# 試みに検索してみるとこれは Vespa には屡々見られる故障のようである.しかし何故こんなところをロックピン圧入で処理したのかねぇ.こういう部位はスラストワッシャと軸用サークリップが定石だと思うが,変な設計をするものであります.

とまれ原因さえ解れば修理は容易い.早速直しに取り掛かった処で,偶々パーツクリーナや液体パッキンを切らしましたので,近所のホームセンタまで赴いたのですが,そこでふと思ったのは,以前のホームセンタというのは,もっと色々と材料や工具が沢山売られていたものではなかったか.

確か昔は自作スピーカのエンクロージャキットとか,真空管アンプのキットさえ売っていたような気がする.それが今やどうであろう,売場中央にデカい面しているのは洗剤やら歯磨やらティッシュなどの日用品ばかりで,工具や材料などは隅っこの方の薄暗い所で肩身狭そうに並んでおる.ということは需要があまり無いということならん.

このホームセンタは客が勝手に使える作業場もあるのですが,そこにも人影は疎らでありますし,工具の音がすると思えばそれは店員がサーヴィスで客の板材などを切っておる音である.んな板っぺらや金網如き容易く自分で切れるだろう.一体イマドキの若い衆は自分でモノを拵えたり直したりせぬか.いや,見ておると壮年も老人も同様である.

あゝ嘆かわしき哉,目を覆わんばかりの国民総手先不器用化現象よ,ドイツもコイツも口ばっか達者の頭デッカチの指萎えに成り下がりおって,「日本人は世界一器用」と自他共に認めた技術大国の栄光よ今何処.…ちぅことで悲憤慷慨しつつ帰宅…
おゝいかぬ,悲憤慷慨に感けて Vespa の修理を忘れとった.
これをばトットと済ませてシャワーを浴び,広げた本は.


(つづきはこちら…)
posted by 「い」 at 00:27 | Comment(3) | TrackBack(0) | 読書記録
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